在ヒューストン日本国総領事館開設80周年記念イベントの開催
令和3年3月10日
3月2日(火)、在ヒューストン日本国総領事館は、1941年3月2日の開設から80周年の節目を迎えました。これを記念して当館は祝賀イベントをオンラインで開催し、約300名に参加いただきました。この動画プログラムは、福島総領事より、80年という長い総領事館の歴史の中で地元コミュニティからの温かい支援や協力があったことを深謝しつつ、併せて当地と日本コミュニティとの交流関係がこの間に飛躍的に促進されたことが慶祝されました。なおイベントにおいては、ヒューストン市シルベスター・ターナー市長、ヒューストン日米協会レアード・ドラン会長、日系人連盟理事グレン権藤氏およびドナ・コール氏、グレーターヒューストン日本人会理事南邦夫氏らの来賓からの丁重な祝辞をいただきました。










同イベントにおける福島総領事挨拶のテキストは、以下のとおりです。
地元コミュニティーに感謝し友情を育くんだ在ヒューストン日本領事館の80年
2021年3月
在ヒューストン日本総領事 福島 秀夫
1.「ヒューストン領事館急設の要を認む」
本2021年は、我が在ヒューストン日本総領事館にとって開設80周年の節目の年にあたります。当館は1941年の3月2日に当時の在ニューオリンズ総領事館の領事分館としてヒューストンに設置されました。記録によればその頃に日本の駐米大使であった堀内大使から、経済発展めざましいヒューストンの地に領事館を新設すべきとの本国政府への提言があり、それが実現した形のようです。1939年5月に発出された同大使の意見具申は次のように熱心に公館設置の必要性を訴えています。
「本使、今回南部地方出張の結果、政治的・経済的関係ならびに邦人発展の現状にかんがみ、ヒューストン領事館新設の急務なることを痛感せり。南部の政治的・経済的重要性は年々増大しており、ことに大州テキサスの心臓たるヒューストンは従来の綿花市場たるほか、近年は石油産地として異常なる発展を示しつつある。わが通商上ならびに啓発上、領事館急設の要を認む。」
当時の戦前のテキサスが好景気にわいていたことは、名画「ジャイアンツ」でジェームス・ディーンが石油を掘り当て大金持ちになった様子を見て想像できます。そしてその時点ですでに地域にはあるていどの「邦人発展の現状」があったとのこと。記録によればその当時に地域に根ざして経済・社会活動を拡充していた日本人コミュニティーはおよそ500人あまり。すでに日本の商社がテキサスに進出し、綿花貿易を拡充していました。ただそうした少数の駐在員の他の多くはこの開設に先立つこと40年ほどの20世紀の初頭から、はるばる海をこえて日本から次々と移住してきたテキサス日系人の方々でした。ただ当時の一世は米国帰化が許されなかったので、日本国籍をそのまま維持されていました。
そのうちでもっとも有名ないわばパイオニアは、ヒューストン地元商工会やサンタフェ鉄道など開発会社からの要望をうけて1903年に稲作普及のため入植した、同志社大学総長であった西原清東(さいばらせいとう)氏です。以降、主に米や野菜栽培の事業を広大なテキサスの大地で展開させる、そんな「テキサスの夢」を抱いた高志の事業家が中心となり、当地の日系コミュニティーを発展させたのです。西原氏が300エーカーのコロニーを築いた、現在NASAがあるウェブスター近辺や、いまだに「マエカワ・ロード」がヒューストン南からつながっている、同じく稲作事業家の前川真平(まえかわしんぺい)氏が入植したペアランドあたりにそうした日系人の方々の夢の痕跡をみることができます。
2.戦争の大波に呑まれて
ヒューストンに1941年に日本領事館が開設されたことは、当時の500人に満たない日本人コミュニティー、さらには地元コミュニティーにとっても大きな朗報であったことでしょう。また着任した初代の領事たちも、おそらく日本と地元コミュニティーとの関係強化に少しでもお役に立ちたい、という使命感にあふれていたものと想像します。当時はまず暫定的に市内ハーマン・パーク近くの一流ホテル、ウォーウィック・ホテル(現在のザザ・ホテル)内に仮事務所が設置され、その後ほどなくミッドタウンの閑静な住宅地バーリントン通りの一角に本事務所を置いたようです。そのあたりを訪ねると、歴史的な戦前からの裕福な住宅街がかなりの程度、保存されており、当時の雰囲気がしのばれました。わが領事館は、ヒューストン市の高配もあって恵まれた環境でスタートを切ったわけです。
ここで日本政府として「通商」にくわえ「啓発」が使命だったという意味は、おそらく戦前当時の社会・政治情勢からくる困難に、日本からの移民が直面していたということかもしれません。つまり戦争という時代の大きな波がほどなく押し寄せ、せっかく開設された領事分館は、ものの1年たらずで閉鎖されてしまいます。同分館は当時、国際連盟を脱退したことで有名な松岡洋右外相によって開設されたのですが、その同じ1941年末の日米開戦によって直ちに閉鎖され、館員や家族はヒューストン港から船で日本に帰国のやむなしに至ったようです。開設からわずかの期間でこの難局に見舞われた当時の関係者の無念は察するにあまりあります。
そんな初っ端から波乱含みあった当館が復活するには、戦争が終わり日米関係も安定してきた1959年まで待たねばなりませんでした。それまでの15年間あまりの長きにわたり、テキサスの日系人の方々が経験した労苦がいかばかりであったか。当時の社会状況などからするとおおよそ想像できることです。ただ「あたってくだけろ、Go for broke!」で有名な日系人2世の442部隊が欧州激戦地で通称「失われた大隊」テキサス大隊を命がけで救った殊勲が当地でそうした感情をやわらげてくれたのは救いかもしれません。ちなみにこれら日系人2世の方々はテキサス州から「名誉テキサス州民」の称号を授与されています。
3.戦後の再出発そしてめざましい発展
戦後に再開されたわが領事館は順調にその活動をひろげ、1965年には総領事館に昇格。これはひとえに、戦後のヒューストンのめざましい経済発展ぶりと、そこに新たな「テキサスの夢」を見出した日本ビジネスの進出増に流れを同期しています。ヒューストンはこの100年間でもっとも早い速度で発展した米国の都市とされていますが、その力の源泉は石油関連産業と軍需産業。そしてその両方にとって全米第3位の貨物量を誇るヒューストン港が良好なインフラの役割を果たしました。日本企業も続々とそこに商機を見出して進出を加速しました。地元の市や商工会も、そのころから日本企業の誘致にたいへん熱心だったようです。
1967年には現在のヒューストン日本商工会が発足します。当時の会員数および企業数はわずか56名と15社。そのころまでは綿花貿易が日本とのビジネスの中心でしたが、そこを鉄鋼、石油化学、機械などの重工業がとって代わります。そしてエネルギーの時代が到来し、押しも押されもせぬ「世界のエネルギー首都」となったヒューストンの繁栄に相乗するように日系企業が石油ガス関連投資を加速させました。また石油ショック以降は地元経済もにわかに多角化してきており、当地に進出する日系企業のビジネス領域もサービス、先端医療、宇宙航空など多岐に広がってきております。2021年現在の日本商工会の会員数および企業数は758名と112社です。ちなみに今やテキサスへの日本企業の投資額と雇用創出は、並み居る諸外国のなかでもトップクラスとなっています。
領事館が開設された1941年当時の日本人コミュニティーは500人弱だったと先述しましたが、その後現在にいたるまでの発展ぶりは振り返ると隔世の感あり、といったところでしょう。当時は日本人移民と2世以降の日系米国人とが混在した数字でしたが、現在はもちろんそこは分けて統計しています。テキサスにおける日系米国人の方々は現在おおよそ2万5千人あまりと推計される一方、いわゆる在留邦人としては当館調べでは1万2千人近くとなっています。ただ注目すべきは近年におけるその増加の加速ぶりであり、とくにこの15年ほどで4倍増しております。これまた全米随一の成長力をほこるテキサスの投資先としての魅力に多くの日本企業が引き寄せられている証左です。
4.コミュニティーに温かく抱かれて
当地での日本コミュニティーがこのように増大するにつれ、地元コミュニティーとの相互理解や共存共栄の重要性もまた増してきました。日米間でいわゆる貿易摩擦や経済摩擦が顕在化してきたのは日本が高度成長の波にのった1970年代以降ですが、そのずっと前から、文化や人的交流をつうじてそうした互いの信頼関係や友情を高めていこうという機運がうまれました。その観点から総領事館の強力なパートナーとなったのは1968年に発足したヒューストン日米協会ほかの親日団体です。とくに日米協会は地元の親日家も巻き込みつつ、日本語や日本の芸術・文化を地元民に紹介し日本に対する親近感を醸成してきました。また姉妹都市交流や青少年交流をつうじて心温まる人と人との長続きする交流を演出・支援してきました。テキサス州内では他にもダラス、オースティン、サンアントニオなどで同様の連綿とした草の根交流が盛んにおこなわれてきています。
また文化面で特筆すべきは、ヒューストンほかテキサス州内各地に点在する日本庭園の存在でしょう。ヒューストンの場合は、日本商工会と会員企業が中心となって、地元ヒューストン市の全面協力によって約30年前の1992年に、かつて総領事館の仮事務所がおかれたホテルが隣接するハーマン・パーク内に本格的な日本庭園が築かれました。あの庭園を市民の方々が憩いの場として訪れ、日本文化やその心を体感してくださることがどれほど日本の良いイメージを与えてくれているか。今や毎年恒例となったハーマン・パーク内での盛大なジャパン・フェスティバルとも相まって、地元コミュニィティへの「啓発」という総領事館の開設以来の使命は、様々な方々による献身的な努力によって支えられています。
最近、当方はヒューストンのターナー市長による仮想訪日プログラムの一環としておこなわれたDoing Business with HoustonというJETRO主催の貿易投資促進セミナーに出席させていただきました。市長さんやヒューストン商工会GHPが日本からの潜在的な投資パートナーに対し、この地域が持つ大いなる経済発展の可能性と、全米一多様性に富んだ包容力について力強いメッセージを発してくださいました。そして当方は応援演説のつもりで「日本の友達、ヒューストン」として地域コミュニティーがいかに温かく日本人や企業を歓迎し家族のように包み込んでくれるか、を実感として強調させていただきました。開館後80年の時を経て、このような互恵的で緊密な関係が成熟するにいたったことに対する感銘と、地元への感謝とを禁じ得ません。
5.難局も共に超え、さらなる共栄へ
さてこのような順風満帆であるかのような流れで当館がこの80周年を迎えようとしていた矢先に、我々すべてが直面した現下のコロナ禍。生活や仕事のあり方を一変させたこの厄介な疫病には、今もコミュニティー全体が懸命の戦いをつづけています。ただ、人間万事塞翁が馬とも申します。このコロナがわれら在留邦人とテキサスとの絆をさらに深める契機にもなることに思いをいたすべきでしょう。地元の医療従事者や経済的に弱い人たちの一助になればとヒューストン日本商工会が集めて昨年に寄付した浄財は、そうした心のつながりの証です。そしてコロナのような外敵をしなやかにはねのけ、これまでよりもっと強靭で持続可能な経済社会を創っていく。そうした前をむいた取り組みはここテキサスですでに着実に始まっています。テキサスが得意とするデジタル変革、高度医療、クリーン・エネルギーなどの鍵となる先進分野において、パートナーである日本の技術や英智がかならずや貢献できると確信しています。
難局をのりこえてこうした新たな繁栄を共にめざすのは、まさしく現代版の「テキサスの夢」であります。80年前の当地の活気あふれる日本コミュニティー、そしてさらには前世紀初頭の先人である西原博士がテキサスの大地に見た風景とおそらく、同じものでありましょう。そこには希望、友情、寛容、そして連帯の精神がやどっています。私ども総領事館は、そうした当地の日本コミュニティーと地元コミュニティーとの絆を支え、互いの友情を育むべく長らくお手伝いできたことを光栄におもいます。またそうした仕事を力強く支えてきてくださったコミュニティーの皆様への感謝の念はつきることはありません。開設80周年の節目にこのことをあらためて想いつつ、総領事館としての任務に微力ながらひきつづき邁進すべく、皆様方の倍旧のご理解とご支援とをお願い申し上げる次第です。