
在ヒューストン日本国総領事 加茂佳彦

本日の会合は、当地で長くに亘り活躍してこられた日本人及び日系人の方々からそのエピソードを聞く会ではありますが、総領事館を代表して当館の歴史等につき簡単に御紹介したいと思います。
ヒューストンに日本人コミュニティーが誕生して100年以上になりますが、この間、重要な節目に活躍した二人の日本人外交官がおります。その一人は、1900年初頭、NYに駐在した内田総領事です。当時、ヒューストン商工会の会頭が内田総領事を訪問し、米作りで成功しているルイジアナ州やアーカンソー州のようにテキサスにも稲作を広めたいので、日本の稲作指導者を是非テキサスに呼んで貰えないだろうかと相談に訪れています。
折しも、コネチカット州の神学校で勉強を終えた西原清東氏がNY総領事館に立ち寄り、内田総領事よりこの話を聞き、日本人稲作指導者のテキサス入植を約束し、日本への帰国の途に付いたそうです。同人は、当時、同志社大学学長兼帝国議会議員という枢要な地位を占めていた人物でした。西原氏は、稲作志望者を懸命に探したようですが、志望者が見つからなかったため、1905年、自らテキサス州に乗り込んできました。西原氏を中心とした日本人がヒューストン地域における初めての稲作入植者となりました。その後も日本からの入植者が続き、当地に一大ライスコロニーを作っていきました。
1939年、もう一人の外交官がヒューストンとの関わり合いをもつことになります。それは当時駐米大使であった堀内大使です。堀内大使は、米国南部及び西海岸地方を視察し、当時のロサンゼルス領事館の総領事館への昇格、領事館のないヒューストン、セントルイスへの領事館新設を本国政府に提言しました。その提言の中ではヒューストンがめざましい経済発展を遂げている旨が述べられています。
この提言が採用された形になり、1941年3月2日に在ニューオーリンズ領事館の分館としてヒューストンの地に日本の領事館が開設されました。ワーウィックホテルに仮事務所が置かれ、間もなくバーリントン・ストリートに事務所が開設されました。自分は、本日、当時の住所に基づき、バーリントン・ストリートを訪ねてみましたが、今でも65年前の古い建物が残っており大変に感銘を受けました。同建物は歴史的建造物特別保存地区の一角にありました。
1941年12月、日米が開戦に至り、1942年1月10日に事務所は閉鎖されました。この間には大変なドラマがあったと思います。自分が仄聞したところによると、日米開戦となり、大使館員や他の領事館員はヒューストン経由で船で日本へ帰国したそうですが、当地に滞在した館員達はヒューストンの人々からひどい仕打ちなど受けることもなく帰国の途につくことができたそうです。
1959年、ヒューストンに領事館が再開され、1965年には総領事館に昇格し、今日に至っています。ヒューストンといえば、過去100年間のアメリカの歴史で最も成長した都市と言われています。1900年の人口が4万人程度であったのが、100年後の2000年にはその50倍の200万人を突破しました。ヒューストンは短期間に大発展を遂げました。ヒューストンの人口が4万人であった頃、既にシカゴは人口100万人を突破していましたが、現在、外国総領事館の数ではヒューストンがシカゴを上回るに至っています。
ヒューストン発展の一つの契機は戦争であったといいます。即ち、ヒューストンが軍需産業の輸出基地であり、戦場向け物資の半分以上がヒューストン港を通して運ばれたためであります。1950年代の軍需産業と並んでヒューストン発展の大きなポイントとなったのは、エアコンの普及でありました。エアコンの普及によって人々が快適に当地に居住できるようになりました。1960年代にヒューストンの人口は100万人を突破しました。
ヒューストンの発展を振り返ると、当地が港町であったことが、ヒューストンの性格を大きく特徴付けてきたことに思い至ります。ヒューストンは港町として自由で開放的な都市へと発展を遂げてきました。これからも港はヒューストンにとって大きな役割を果たしていくものと思います。
最後に、テキサス州においてヒューストンが古くから日本人社会の中心であったということを申し上げたいと思います。このことは色々な記録からも伺うことができます。ダラスと比較されることもありますが、日本人コミュニティーの規模から見るとヒューストンがその中心でありました。歴史的にもテキサスの日本人社会にとって特別な位置を占める当地に住む者として、誇れる歴史を次代に引き継ぎ、更なるヒューストン邦人コミュニティーの発展に皆様と共々に取り組んで参りたいと思います。