
在ヒューストン日本国総領事 加茂佳彦

皆様、ようこそ、テキサスへいらっしゃいました。ただ今ご紹介頂きました在ヒューストン総領事の加茂佳彦です。本日は、皆様方に対して当地事情についての講話を行う機会を得まして大変光栄に存じます。皆様方は既に昨日当館中村首席領事からも同種のブリーフをお受けと伺っておりますので、本日の私のお話は、若干、個人的偏向が強く出そうですが、テキサスの見所、押さえ所についてのみ、簡潔に申し述べてみたいと思います。
皆様方は、訪問先で、どこの総領事からも任地自慢を聞かされるものと推察しますが、私も基本的には、テキサスは特別に重要だ、テキサスを知らずしてアメリカを語るなかれと申し上げたいと思います。「どう特別なのだ」とお尋ねになるでしょう。皆様方のテキサス日程を見て頂ければ、その特別さ加減がよくお分かりになると思います。ガルベストン、ヒューストン、フレデリクスバーグ、サンアントニオ、コーパス・クリスティーとゆうに800マイル以上を陸路で踏破されるわけです。キロに直すと1300kmで東京から行くと鹿児島へ着いてしまいます。こんな寄港地、他にありますか。皆様方のテキサス滞在を最も有意義ならしめるためにはどこへ行って貰うのがベストかと我々が知恵と汗を搾った結果こうなりました。強行軍ですが、きっと得るものも大きい筈です。先ずは、これら訪問地についての一口コメントを申し上げましょう。
(ガルベストン)
ヒューストン港ではなく、何故ガルベストン港で皆様をお迎えしたのか。それは、ヒューストン港は工業港であり、カリブ海クルーズの基地ともなっている近接のガルベストン港の方が寄港地として相応しいからです。ガルベストンは19世紀中葉以降綿花の積出港として栄え、一時期テキサス州の州都でもありました。1900年のハリケーンで数千名の死者を出し、首都機能を失いました。過去と比べれば寂れてしまいましたが、テキサス最古のオペラハウスや風情のある街の佇まいは他所には無い魅力です。延々と続くシーウォール沿いに、「バリニーズ・ルーム」という音楽クラブがあります。かつてはフランク・シナトラやサミー・デービス・ジュニア等が出演したそうです。
(ヒューストン)
ヒューストンの名前は、ヒューストンとガルベストンの中間にあるサンジャシントの地でテキサス軍を率いてでメキシコ軍を破ったサム・ヒューストン将軍に由来します。ヒューストンは米国の歴史上過去100年で最も発展した町だと言われています。1900年に4万人の人口が2000年には50倍の200万人に増えたのです。綿花と石油の富がヒューストンの発展を支えてきたわけですが、大陸横断鉄道とガルベストン港、ヒューストン港を繋ぐ地の利が大きく与ったものと思われます。ヒューストン発展の原動力となった背景の一つが第二次大戦でした。軍需品の積出港として隆盛を極めたのです。もう一つは戦後のエアコンの普及です。1960年代に人口100万人を突破しましたが、エアコンのお陰で、暑い夏でも快適に住めるようになり人口の急増を見たのです。現在もヒューストンはビジネスの町として、成功を夢見て国の内外からやってくる人々を飲み込みつつ発展を遂げております。テキサス・メデイカル・センターと呼ばれる米国でも最大級の医療施設群は綿花の富を基礎に築かれた一病院からスタートしました。ヒューストン市西部に広がる高級住宅街は石油の富の象徴でもありましょう。大きな家に住み、SUVやピックアップ・トラックを自在に操る生活、それがアメリカン・ドリームの一典型だとしたら、ヒューストンは如何にもアメリカ的です。
(フレデリクスバーグ)
テキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある田舎町ですが、ベッド&ブレクファストで有名な観光町でもあります。この当たりは19世紀中葉以降ドイツ人が開拓した地域で、現在も、ドイツ系アメリカ人が多数居住しています。ビール、ワイン、ソーセージ等の産地でもあります。リンドン・L・ジョンソン大統領の生まれ故郷であるジョンソン・シティーは隣町です。
皆さんは明日の早朝5時半にガルベストンを出発し、フレデリクスバーグに向かわれますが、何も、ジョンソン牧場でソーセージを食べるために遠出されるのではありません。フレデリクスバーグにあるニミッツ提督博物館兼太平洋戦争博物館を視察されるために行かれるのです。第二次大戦時の米太平洋艦隊司令官ニミッツ提督は、海とは縁遠いこのテキサスの丘陵地帯の町フレデリクスバーグで生まれました。この戦争博物館視察のアイデアは阿川尚之慶応大学教授がワシントンの日本大使館公使時代に同博物館を訪れて感激され、自衛隊関係者による視察を熱心に勧められたことが発端であると伺っております。私もこれまで2度訪れましたが、太平洋戦争に関する最も包括的な博物館の一つであるとの触込み通り、日本軍関係展示品も多数存在することに驚きました。展示の内容につきましては、専門家でもありませんので断定は致しませんが、日本に対する過度の敵愾心を露わにしたものではなく、日本人にとっても真摯に歴史を振り返ることのできる場となっているのではないかと思います。尤も戦勝国側の論理と歴史認識で貫かれてはいますが。
実は一ヶ月ほど前、太平洋戦争博物館で「栗林中将と硫黄島」と題する講演を行って参りました。最近話題の梯久美子氏が著した「散るぞ悲しき」という本の内容を紹介する話をしたのですが、激戦地の硫黄島が戦後は日米和解を象徴する地となっていることを指摘すると共に、ニミッツ提督博物館にある日本庭園も日米和解の地となっていると聞き大変勇気付けられたとの個人的感想も述べておきました。ニミッツ提督は予て東郷平八郎提督に私淑し、のちに友情を結ばれたことで有名です。これが縁でニミッツ提督博物館建設時に日本から同博物館に「平和庭園」を寄贈する話がまとまり、テキサス丘陵地帯の一寒村に素晴らしい日本庭園が設けられました。この庭園内には東郷提督の書斎のレプリカも再現されております。皆様方はいわば敵将の地に出向かれるわけですが、時代は移り、今や米国とは同盟国同士の間柄です。沖縄の海兵隊は訓練中必ず硫黄島へ出向き先人の武勲を称え国防への献身を誓うと聞きます。皆様方がフレデリクスバーグの東郷平和庭園で海上平和の執行者としての自覚と日米連帯の誓いを新たに心に刻んで頂くことは、同様に大きな象徴的な意味があるものと思います。
(サンアントニオ)
サンアントニオといえば、アラモ砦の戦いです。1836年に起きた包囲戦で、メキシコ軍はデビー・クロケットを含む200名程のテキサス義勇軍を全滅させました。更に進軍してヒューストン付近のサンジャシントの戦いで破れ、テキサスが独立し、テキサス共和国の誕生を見たわけです。ところで余談ですが、1899年に地質学者で当時米国南部の地質調査をしていた志賀重昂がアラモを訪れ、武勇伝に感動し漢詩を読み、帰国後にその漢詩を印刻した石碑をアラモ砦に贈っています。100年以上経った現在も境内の一角にその石碑が立っていますので、お見逃しなきよう。アラモに加えてリバーウォークと呼ばれる水路沿いの一角で有名なサンアントニオはテキサス一の観光地です。
今も昔もサンアントニオはメキシコと縁の深い土地柄です。現在もヒスパニック系住民が半分以上を占めます。サンアントニオは基地の町として発展してきました。基地再編の余波でケリー空軍基地が閉鎖されましたが、まだ、複数の基地が付近にあり、基地の町としての性格は健在です。物価が安く、温かで、医療も充実していますので、退役軍人の引退生活地として人気があります。所謂GI花嫁として来米した日本人女性もサンアントニオ近辺に相当数いると聞いています。この秋からは、トヨタがピックアップ・トラック工場を立ち上げますので、サンアントニオの町は、ちょっとした日本ブームに沸いています。
(コーパス・クリスティー)
横須賀と姉妹都市のコーパスは米メキシコ湾岸の西端に位置し、天然の良港として知られています。海軍基地が2つあり、コーパスも基地の町です。テキサス州東部のボーモントと並ぶイラクへの軍需物資の積出港で、港の集荷所にはイラク向けの資材がズラリと並べられていることがあります。海軍の基地がありますので、海軍関係者特に退役軍人が悠々自適の引退生活を送っている海浜都市でもあります。同地も観光が主な産業の一つで、釣りやマリン・スポーツを楽しむ観光客が見られます。石油コンビナートを後背地に控えた産業港としての側面も持っています。ベネズエラからタンカーがひっきりなしに入ってきています。
コーパスからヒューストンに戻る道すがら、4時間近くかかると思いますが、是非最初の1時間は眠らずに頑張ってテキサスの大地を観察していただきたいと思います。日本にはない広大且つ平坦な土地が広がります。空と地平線がはるか彼方で交わるだけの景色を味わってください。耕地として開墾されているその大地では綿花や麦やとうもろこしが栽培されています。テキサスは、日本の1.8倍、アラスカに次ぐ全米第二位の面積を誇ります。こういうところで育つと発想も違ってくるだろうなと思わずにはいられません。
一口コメントが長くなってしまいました。最後に、これだけは、皆様方の記憶の片隅に留めておいて欲しいと思うことを、簡潔に申し上げたいと思います。始めの2点は歴史的なことで、残りの2点はこれからのことです。
(日系人部隊442)
第2次世界大戦の勃発とともに、米本土の日系人は敵性国民として米各地の収容所へ強制収容されました。インターンメントと言われています。このやりきれない状況のなかで、収容所内の日系2世は兵役を志願し、日系人からなる第442連隊が創設されました。当初日系人2世の兵役は認められませんでしたが、ハワイ出身日系人からなる第100連隊の大活躍により、当局も方針を変更し、忠誠試験を実施するなどして日系人2世からなる442連隊を組織しました。他に、諜報機関(MIS)に入り、中国等アジアの戦場に送られた日系2世もいました。442連隊は、投入された欧州戦線で勇猛果敢に戦い大活躍をしました。特に、南フランスのブリュエールでドイツ軍に包囲され、2度の救出作戦にも拘わらず包囲を解けずに見捨てられたテキサス第一連隊の救出を命じられ、奮戦、200人のテキサス兵を救出するため、隊員の半数以上の800人を死傷させるという犠牲を払いながら救出に成功したのです。442連隊は米国のすべての部隊のなかで最も多くの勲章を授与された部隊であるとされています。合計18000個以上です。戦後、彼らは、当時のコナリー・テキサス州知事から「名誉テキサス州民」の称号を授与されました。最近、この442部隊の活躍を描いた映画「オンリー・ザ・ブレーブ」が製作され、各地の映画祭などで上映されています。残念ながら商業上映には至っておりません。
彼らの功績は、戦後の日系人の地位向上に多大な貢献をしました。彼らの犠牲的献身が日系人の名誉回復や社会的成功の礎を築いたのです。例えば、1952年に米国は1790年の移民・帰化法を改正し、移民・帰化に際しての人種差別を撤廃しました。これは、442部隊の活躍と無関係ではないと言われています。日本人やアジア移民は、1952年まで米国への帰化を法的に行えなかったのであります。60年代の黒人による市民権獲得運動に刺激をうけ、70年代から戦時中のインターンメント政策による名誉と金銭的救済を求めるリドレス運動が日系3世のイニシアシブで組織されました。事を荒立てるよりも、日本との縁を断ち切って米国社会への同化を深化させたいと考えた2世たちは当初、リドレス運動に消極的であったと言われていますが、息子たちに促されて証言に立ち、無念の思いの丈を述べたのです。議会調査委員会の勧告が出て、最終的に日系人に対し、米国政府がその政策の非を認め謝罪し、金銭的補償を行う法案にレーガン大統領が署名したのは1988年でした。日系人の無念を晴らしたリドレス運動も日系人部隊の活躍があって初めて成功を見たものでしょう。ということで、このテキサスが日系人部隊及びそれに連なる日系人社会と少なからぬ因縁で結ばれていることを先ずもって指摘したいと思います。
(テキサスへの日本人移民)
さて、テキサスへの日本人移民の先駆者として名高いのは西原清東です。西原は、同志社大学学長であり且つ帝国議会議員でもありましたが、米国留学時に、稲作指導のためのテキサスへの入植の話を偶然内田ニューヨーク総領事から聞き及び、関心を示して、1905年に同志とともにテキサス州ウェブスターに入植しました。そこで、一大ライス・コロニーを興し、米作のテキサス州導入・普及に貢献しました。このライス・コロニーの地は現在NASAの敷地になっています。今日の午後には、皆様方はNASAの見学をされますが、付近でコバヤシ・ロードとか日本の名前のついた道路を見かけることでしょう。「ああ、ここでも100年前に日本人開拓者が熱帯湿地と格闘したのだ」ということが実感されるでしょう。因みに日本式稲作の収支決算ですが、基本的には成功したと言え、テキサスは米国有数の米作地帯となりました。でも、経営に失敗した例も結構あるそうです。日本人は一ヶ所に手間隙かけて耕作するのが得意で、そうしてしまいますが、やがて生産力が落ちてきます。テキサスでは、地味が落ちる前にそこを捨て、新たな土地を次々に開墾する方が利に叶っているというのです。この発想、確かに日本では生まれようがないですね。
もう一人の日本人は岸吉松。バロン・キシとして名を馳せました。ヒューストンから東へ80マイルのボーモントで農場用の土地を購入したら、そこから石油がでてきて、日系人の石油王になったのです。岸コロニーには、キシを頼って日本から多数の移民が押し寄せたといいます。岸家は新潟県長岡市の名家で、西原といい岸といい、テキサスへの日本移民は、生活苦の農民ではなく、日本社会でも第一級の人物が率先して開始された歴史があります。このキシ・コロニーを1928年に当時在米大使館付き駐在武官であった山本五十六が訪問しています。岸家と山本家は長岡では隣近所で、近所づきあいをしていたといいます。ボーモントにはスピンドルヘッドというテキサスで最初に発見された油井があり、山本の来訪時は、石油ブームに沸いていたものと想像されます。山本五十六は、米国の工業生産力、資源力を熟知しており、米国との総力戦に最後まで反対したと言われていますが、その山本長官の米国の工業生産力に関する重要な頭作りをしたのが、キシ・コロニーへの視察であったのです。バロン・キシはその後も土地を買い増しし、石油探査に精を出しましたが、不運にも以後は新油井掘削に失敗しました。石油を噴出していた油井も開戦とともに、敵性財産として没収され、バロンの夢もはかなく費えてしまいました。
(テキサス州の人口動態)
移民国家米国の人口動態は、米国史そのものであり、世界史的広がりも持っています。テキサスはアメリカ合衆国の一つの州ですが、どことなく違うと思いませんか。大体、州の旗(ローンスター旗)をテキサスほど見かける州はないでしょう。それもそのはず、テキサスは米国の州で唯一、州旗を合衆国旗と同じ高さで掲げる権利を認められているのです。それは、テキサス共和国としていったん独立し、独立国として13合衆国と、理念上、同等の立場で合衆国に参加した(実際には併合された)経緯から派生しています。綿花と石油がヒューストンの富の源泉だとお話しましたが、皆様が立ち寄って来られたボストンやボルチモアの繊維工場向けの綿花を確保することが米国南部開発の原動力となり、開拓が西へ西へと進みました。インディアンはオクラホマに囲いこまれました。農場での働き手確保のために黒人奴隷がアフリカから連れてこられました。当時のメキシコは奴隷制を認めていなかったのですが、テキサスへの入植者は農場での働き手確保のために黒人奴隷を連れて入ってきたのです。200年後は同じ土地で逆方向の不法移民(ヒスパニック系)が大きな問題になっているのは歴史の皮肉としか言いようがありません。
ヒスパニック系のテキサスでの台頭は歴史的な視点から見れば不思議でも何でもありません。もともとこの地に先住していたのは彼らだったのですから。現在テキサス州の最大民族は俗にアングロと呼ばれる白人ですが、あと15年も経たないうちにヒスパニック系人口が白人数を上回るそうです。現在、米国では国境地帯の治安維持の問題とも絡めて、国境の安全確保と不法流入者・滞在者への取り扱いが大きな政策問題となっています。ブッシュ政権としては、もっと国境管理を厳しくして不法越境を取り締まると共に、既にいる不法滞在者に一定の条件で法的地位を付与し、日陰の市民を無くそうと考えているようですが、不法滞在者にどの程度の恩赦を与えるか、与えないかについては、国、地方の双方で論争があり、未だ意見が集約されていません。移民国家米国のダイナミズムはいつの世も移民からもたらされるのも事実です。発展が続くテキサス州で最も高い成長率を示す地域はメキシコ国境地域です。ヒューストンの発展も、このようなヒスパニック系の不法就労者に支えられている面もあることは否定できない事実と言えましょう。
(ヒューストンは米国社会の未来を写す窓)
最後にヒューストンについて、一言、申し上げます。ヒューストンといっても日本ではあまり馴染みがないと思いますが、将来の米国社会を先取りしている先進都市であるとも言われています。私も2年間在勤致しまして、米国社会でのヒューストンの位置づけと日本のそれとの乖離が相当にあり、ヒューストンをもっと真剣に日本に売り込む必要があると常々思っている次第であります。米国は日本のような中央集権の国ではありませんので、例えば、ワシントンやニューヨークに注目しておれば、万事、事が足りるということではありません。これらの都市より重要だとは申しませんが、米国の20年後を写す未来都市と言われるヒューストンへの我々日本人の関心はあまりにも低いと言わざるを得ません。
これには幾つか理由があります。一つは、ヒューストン自体が宣伝下手で米国の中でさえ、実力以下にしか伝えられていないことです。綿花にしろ、石油にしろ、はたまた高度医療にしろ、ヒューストンの産業はいわば「卸売り」業であり、小売業で求められる顧客へのきめ細かなサービス乃至発信を求められてきませんでした。ですから一般にサービス産業やメディア産業が育っていない。日本にもNASA以外のことは伝わりにくいのが現状です。ヒューストンには日本企業が100社活動し、日本人が2500人程居住しています。全米第4の大都市で活動する日本企業の数としては、いかにも少ないと思われます。日本人ビジネスマンは当地で確たる地歩を築いているとは言え、一マイノリティーに過ぎません。町の代表的産業である資源開発が日本企業の得意分野と異なり、日本企業にはやりにくい面もあるのが一つの理由でしょう。それやこれやで日本企業の進出が今ひとつ伸びていません。
でもヒューストンの最大のセールス・ポイントは、ビジネス・フレンドリーな町である点です。季候や風景の点で魅力があるとは言えませんが、新参者でも努力と才覚次第で成功を収めることができる風土が人々を国の内外から引き寄せています。石油産業がもたらす富と就業機会を求めて世界中から人が集まり、アメリカの中でも最も人種的混合が進んだ国際都市の一つとなっています。ヒューストンでは、白人、ヒスパニック、黒人、アジア系のそれぞれが存在感を示していますが、特筆すべきは、アジア系の急増です。遠からずヒスパニック系が最大グループになると申し上げましたが、アジア系も伸長しているのです。このダイナミックなアジア系のなかで日本人が存在感を示して行くことが重要だと思います。ベトナム、中国、台湾、韓国、インド、パキスタン等他のアジア系の勢いには誠に端倪すべからざるものがあり、当地でアジア系が主なステークス・ホールダーの一人としての地位を築く日も意外に近いのではないかと思われます。その時に日本人がその集団の溌剌とした構成員になっていることが重要です。数では負けますが、中身で信頼され、尊敬される存在になるように、我々も、大いに頑張るつもりであります。ヒューストンが本当にアメリカ社会の未来を映し出して行けるのかどうかは、これからもヒューストンが、内外の色々な人々に手早く成功する機会を、他所よりも多く提供し続けることができるかどうかに掛かっているでしょう。エネルギー産業の隆盛とヒスパニック移民の絶えざる流入が見込まれるヒューストンは、今後も全米を代表する雇用機会提供先端都市としての実力を持ち続ける可能性があると思います。やはりヒューストンで起こることは20年後に他のアメリカの都市でも起こるのです。つまり、将来も日本人がアメリカでうまくやっていけるのかどうかが、ヒューストンを観察することで見透かすことが出来るということなのです。皆さん、少しはヒューストンに対する関心が沸いてきたでしょうか。話半分としても、ヒューストンから目が離せないと思いませんか。
ご静聴ありがとうございました。